こざ

ドラマの感想から入ったのにだんだん雑多になった人

ドルオタ『推し、燃ゆ』を読んだ。

宇佐見りん作『推し、燃ゆ』を読んだ。

 

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私は普段全くと言っていいほど本を読まない。だが、食事中、調味料の成分表を読んだり、ほぼ変わることのない田舎の電車のつり革広告を何回も読むくらいには、活字が好きである。今日もこうしてTwitterをし、他人のブログやpixivを読んでいるのも活字が好きだからだ。でも、本は何か機会がないと読むことがない。おそらく自分の興味の方向が向かないからだろう。だから毎年、読書感想文に苦戦しており、去年は高校生にして、『ぐりとぐら』で感想文を書いて提出した。今までの読書感想文人生で、1番文字数が少ない本だった。1か月後、返却されたものを見ると「ぐりとぐらでこの分量は凄い(笑) でも、もっと本を読みましょう。」と書かれてあった。

 

そんな私が「読みたい!」と思った本の情報がTLに流れてきた。そう、『推し、燃ゆ』である。フォロワーさんのことを信頼しているので、ドラマにしろ映画にしろ、フォロワーさんが「面白い!」と言ったものは、どうしても気になってしまう性分だ。この『推し、燃ゆ』は、鬼滅レベルで、次々とフォロワーさんが買い、読んでいたので、これは読まなきゃと思った。「読みたい!」というよりも、「読まなきゃ!」の方が大きかった。TLに流れてきた情報で、「推しが炎上した。ファンを殴ったらしい。」という文章から始まることを知った。気づいたら、Amazonのカートへとポチっていた。

 

 

 

私は、生粋のアイドルオタク、ドルオタである。小さい頃は、アイドルに「憧れ」という感情も持ち、1人、家でアイドルごっこをしていた。幼少期、世間的に大流行していたアイドルはAKB48。未だに、2009年~12年くらいのAKBの曲は、音源なくとも歌って踊れる。そのころの将来の夢は「アイドル」だった。だが、成長するうちに、"憧れ"のアイドルから、"好き"なアイドルへと、気持ちが移り変わり、そして今に至る。

これまで私のアイドル人生は、主にジャニーズ畑に生息するジャニオタだったが、去年の自粛期間中にハロプロに落ち、見事ハロオタになった。今は、ジャニーズとハロプロを主に応援している(が、Youtubeのチャンネル登録の8割はアイドルなので、他事務所グループの曲も、まあまあ聴いている)。

 

 

だから、私には三次元の「推し」、もしくは「自担」という存在が何人かいる。「推しのどこが好きなの?」と聞かれたら、「存在」と答え、雑誌やテレビ、ラジオ、ライブの挨拶など、さまざまなコンテンツを通して発せられる推しの言葉を「解釈」して楽しんでいる。

そう、本作の主人公「あかり」だ。あかりは、「上野真幸」という男性アイドルを推している女子高校生。ドルオタと一口に言っても十人十色だが、あかりは、推しに対してリア恋という感情はなく、有象無象のファンでありたい、推しの作品も人もまるごと解釈し続け推しの見る世界が見たい、というスタンスでファンをしている。

 

似ている。

 

そう思った。私も、アイドルに対してリア恋という感情を湧かせたことはなく、推しが食べるご飯粒のような存在でありたいと願っている。認知されなくていい、されたくない。ただただ私が推しに対して抱いている「好き」という感情が、推しの今日を少しでも照らしてくれればいいと思っている。「好きが止まらん~~~~~~結婚しよ~~~~~~~~~~~~~~」「今、確実にこっちを見たよね!?もしかして認知!???!??」などといったバカげたツイートはよくしているが、もちろんネタであり、「カッコいい」=「結婚しよう」みたいなものである。

そして私はよく「解釈」をする。「接線部の「僕」の気持ちを30字以内で書け。」みたいな現代文の問題を解くことが好きなように、推しの言葉を読み解きするのが好きだ。あかりのようにマメではなく、ズボラの極みなので、推しの発言を書きとってファイリングはしていないし、写真のフォルダ分けもしていない。何なら、雑誌の解体も間に合ってないし、買って届いたのはいいものの、そのままにしているグッズもある。あまりにズボラだ。だが、記憶力があるのか、推しがいついつの雑誌でこんな発言をしていた、いついつのラジオでこういうエピソードの話をしていた、みたいなのは、何となく記憶をしている。徳川将軍は全員言えないのに、推しのエピソードは暗記しているタイプの人間だ。だから、「この質問、推しがされたら、〇〇って答えそうw」「去年は〇〇って言ってたけど、今は〇〇ってことは、この1年の〇〇って仕事の経験が、推しの考えを変えたのかな」みたいな、お前何様やねんってツイートをよくしている。もちろん、推しの世界を見ることなんてできないし、推しのことを知るなんてできるわけがない。家族でも、友達でも難しいのに、さらに遠くの存在である推しに対して、できるわけがない。友人にも「勝手に読み取っても、何にもならなくない?」と言われたことがある。でも、それでいいのだ。分かろうなんて思ってない。あかりは、「推しの見る世界が見たい」と思っているが、私はそう思っていない。休日ダラダラしている私に、青春を捧げ、血が滲むほど努力をして、キラキラ笑顔をふりまくアイドルをしている推しの気持ちなど、たとえ十字架にくぐりつけられようが、分かるわけがない。むしろ「分かる」と思うほうが迷惑だ。だけど、私は、こう思っているんじゃないかと「解釈」をする。勝手な人間だと、自分でも思う。でもそれが楽しい。どの推しも、人生推しという捉え方をしているので、推しから発せられる言葉が、考えが大好きだ。その言葉たちを、自分の中で解釈し、紡ぐことで、さらに愛おしいな、と感じる。あぁ、今日も推しのことが好きだ。

 

 

 

2020年12月31日をもって、嵐が活動休止をし、私の自担である大野智さんは、お休みに入った。数か月前までは、嵐の、大野さんの姿を見ることができない世界線は、どういうものなのか想像がつかなかったが、2021年の今現在、普通である。そこまで大きな変化はなく、今まで通りすぎて、自分でも驚いているほどに普通だ。

2年前、2019年1月27日、嵐が活動休止を発表した。それはあまりに突然のことで、思わず、「は?」と口にしたことを覚えている。アイドルに永久はない、推しは推せるときに推せとはこのこと。まさか自分の身に、嵐にそんなことが訪れるなんて思ってもみなかった。ジャニーズのグループに、加入卒業制度はない。デビューしたら、誰も新たに加入することなくデビューしっぱなしというのが普通だ。もちろん、メンバーの脱退、グループの解散というのは、事務所単位で何回もある。私はいつから、嵐に対して「永遠」という感情を持っていたのだろうか。心の奥底で、嵐は永久的に5人で続いていくものだと思っていた。もちろんそんなわけはない。「活動休止」ニュースのアナウンサーからこの4文字を聞いたとき、現実を突きつけられたような気がした。

 

大野さんは、活動休止の発表をする前から、「辞めたい」と思った、思っていた、といった話をよくしていた。大野さんはマルチな才能の持ち主だ。歌にダンスにアート、芸術家な人間だとつくづく感じる。努力の上に今の大野さんがいるのは、そうなのだが、もともとの才能、育った環境が、芸術家大野智を生み出したのだろう。だから、大野さんはアイドルじゃなくても、十分に生きていけるのだと思う。でもこうして、アイドルとして、嵐として、人生を全うしている。「辞めよう」と思ったら、ジャニーさんにハワイに連れられ嵐としてデビューした大野さん。数年経ってまた「辞めよう」という気持ちが芽生えていたが、10周年のときに尋常じゃないくらい祝っていただいた中で「我に返った」という大野さん。15周年のハワイコンサートで、「葛藤は今、正直ありません」と涙ながらに挨拶をする大野さん。全て、正真正銘の大野智である。

そのことを知っていた。だからこそ、会見で「自由に生活をしてみたい」その気持ちの上での活動休止である、と大野さんの口から告げられたことが、そんな大野さんの願いが叶うことが、とても嬉しかった。「やっとゆっくりお休みできるね」そう思った。

でもこれは、表面上の私である。もちろん、この「嬉しかった」という気持ちに嘘はない。だけど、悲しい、寂しい、嫌だ、お休みしないでよ、そんな気持ちの方が強かった。

私は発表の翌日、普通に学校に行った。休まなかった。なんで休まなかったのだろうと、今になって思う。家族から「休まなくていいの?」と言われたし、友人からも「今日ばかりは来ないかと思った」と言われた。それは、会見で、より嵐が嵐のことを好きなのだと"解釈"したから、翌日当たり前に立てたのだと今では思っている。

 

 

そして、そこからの約2年、後悔のないように、嵐を全力で追い、全力で応援しようと決めた。もうカウントダウンは進んでいるのだから、最後かもしれないからと、例年の何倍も嵐にお金を使った。メンバーが出演する番組は必ず見るようにし、ダビングもきちんとした。嵐が担当しているCMの商品も多く買うようになった。グッズも買える範囲でたくさん買った。

 

そうして1年と少し経った頃、父親とガチ喧嘩をした。喧嘩の内容を説明すると長くなるから割愛するけど、そのとき父に「もっと現実を見ろ。そんな毎日毎日、テレビやスマホ見て、依存じゃないのか?(グッズをたくさん飾ってる)あの部屋もなんだ。現実に向き合えないなら、もうやめろ。そんなんだから、こんな子に育ったんだ」みたいなことを言われた。意味が分からなかった。というのも、このときの喧嘩の内容に、この父親からひたすら投げられた言葉の根拠があってなさすぎて、父が言った8割の内容は未だに分かっていない。今になって、あのときは、娘に対してモヤモヤしてた思いを、感情的になった今、一緒に言ってやろうという考えだったのかな、と何となく思っている。

父はよく「依存」という言葉を使う。何かと都合のいい言葉なのだろうか。自粛期間中の深夜にゲームをしていたら「依存」と怒られ、音楽番組をキャーキャー言いながら見てたときも「依存」と言われた。

今になっては、もう慣れて、フル無視しているのだが(おい)、ガチ喧嘩したときに言われた「依存」という言葉が、どうもたまに胃の奥を刺激する。

 

 

 

あかりは、推しのことを自分にとっての「背骨」だといい、推しのいない人生は「余生」だといった。

 

私もそう思っているふしがあった。あるではない、あった。嵐が活動休止発表をして、数か月が経った頃から、こんなに好きになって大丈夫だろうか。今はこんなに追っているけど、いざその日がきたら燃え尽きてしまわないだろうか。嵐のいない世界線で生きていけるだろうか。そんなことを思う日が、少なくなかった。

そんなことを思っていたある日、二宮さんが、5×20のとある公演で「嵐がお休みに入っても、みんなはみんなの人生があるから、頑張んなきゃいけないんだよ。いろんなことをこの先も自分で決断していくんだよ」と挨拶したというレポを見かけた。二宮さんの言葉は大体素直ではないけれど、人生の肝となる言葉を二宮さんなりに届けてくれる。

私はこの言葉を聞いたとき、ハッとした。同時に、そりゃそうだとも思った。確かに嵐は、私の生きる希望だし、嵐が私に与えてくれる影響は大きいけど、私が嵐に与える影響なんて、ないに等しいほど小さなものだ。

 

また、私は去年、自担が増えた。Snow Man目黒蓮さんである。私は、嘘偽りもない、良くも悪くも真っ直ぐな目黒さんの言葉が大好きである。目黒さんはデビューライブで「ファンの皆さんには、1人1人人生があって、僕たちがその人生に関わったことで楽しいと思ってくれたら嬉しい。おまけみたいな存在になりたい」と挨拶した。

 

 

推しのいない人生は余生。

 

もう一度、あかりの言葉を思い出す。今の私は、そんなことは思っていない。今の私は、アイドル、推しのことを、「+α」な存在だと思っている。「私 in 推し」ではなく、「私 +推し」という考えだ。推しがいなくても、推しに出会っていなくても、私の人生は楽しいものだが、推しに出会えたことで、私の人生がより楽しくなりました。という考えに変わった。

 

この二宮さんの言葉や、目黒さんのアイドル観に出会っていなければ、私は今頃、燃え尽きて灰になっていたかもしれない。時が流れるだけで、所詮灰だ、と「無」の感情で生きることになったかもしれない。

あかりは、もしかしたら自分の"If"なのかもしれないとふと思った。気づいたら、胸が苦しく張り裂けそうになり、涙が止まらなかった。そして、記憶から忘れ去られていた、父親に「もっと現実を見ろ」「依存じゃないのか?」と言われたことを思い出し、ちょっとイラっとした。現実と向き合った結果が、私という人生だよバーーーーーカ!

 

 

 

2年という月日は、2020年は、あっという間にすぎ、ついにその日は訪れた。結局、私は一度も嵐に会うことがなかった。悔しい。会いたかった。だけど、1番悔しい思いをしているのは嵐だ。これまで2020年に向けて計画してきたことが、何もかも崩れ落ちた1年だっただろう。悔しい。本当に悔しい。

だけど、その日の嵐は、この世の何よりも、誰よりもキラキラしていた。ウイルスなんか跳ね飛ばすくらいのパワーだった。宝石のようだった。東京ドームは、宝箱のような空間だった。大野さんは「またいつか人のためになれるように」と挨拶した。そして、「またね。ありがとう」で挨拶を締めくくった。最後の曲を歌い終わり、5人は手を繋いで階段を上っていった。そのときの大野さんは、涙を見せることなく、心からの笑顔だった。そして、嵐は光に包まれて消え、そのあと虹が架かった。嵐は嵐というアイドルの21年を、嵐という5人で、最後まで駆け抜け、創り上げた。

 

大野さんの「またね」という言葉にどんな意味があるのかは分からない。物理的なのか、心情的なのか、また会えるからなのか、もう会えないからなのか。

この2年、「嵐が好き」という話をすると、「いつ解散だっけ?」「でもまた戻ってくるんでしょ?」の二択で返される日々だった。また、気を使っているのか、本心なのか、「嵐はまた帰ってくるよ」「大野くんも数年経ったら戻ってきてくれるって」といった言葉も沢山かけられた。

外野の言葉はシカトする。私は、あの日、大野さんの口から発せられた「またね」、嵐の口から発せられた「またね」だけを胸に秘めていこうと思う。どんな意味だっていい、意味がなくたっていい。今日もなお、そこには、嵐が、大野智がアイドルとして、駆け抜けた日々があるだけだ。

 

 

 

 

2021年、私の日々は、大きく変化していない。それは、私自身が、推しを自分の背骨にしていないというのもあるけど、何よりも、嵐が約2年という時間をかけて準備をし続けてくれたことが大きい。嵐は、何年先のことまで考えて、行動してくれていたのだろう。改めて、嵐の偉大さを感じる日々である。

今年は、どんな推しの姿を見ることができるだろうか。とても楽しみでしかたがない。自分の無理のない範囲で推していこう、楽しんでいこう、そう思っている。

 

 

 

 

おそらく、今年も読書感想文の課題が出るであろう。そのときは、このはてブロを要約して提出しよう。未来の自分へ。夏休みの課題が1つ減ったよ!やったね!おめでとう!