こざ

ドラマの感想から入ったのにだんだん雑多になった人

今更ながら、私が『逃げ恥』にどハマりした理由を素因数分解してみた

新型コロナウイルスの影響で、空白となったドラマ枠を各局が再放送ドラマで埋めている今日この頃。TBS火曜10時枠では、『逃げるは恥だが役に立つ』の再放送が始まった。

 

私は重度の『逃げ恥』オタクだ。どれほどヤバいオタクかというと、すでに各話20回以上しており、1人逃げ恥ができるくらいにはセリフを暗記。当時の放送を、見る用と保管用(×2)、友人に送りつけた用(×4)とBlu-rayにダビング。年末によくやっている再放送を毎回録画してはダビング。円盤、原作全巻、シナリオブック購入済み。家族旅行で関東に行ったのに、途中から完全単独行動で横浜聖地巡礼。オリジナル逃げ恥ノートなんていうのを作り、感想や考察を殴り書き(棚の奥に潜んでいたのを先々月見つけた)。それだけでは抑えられなくなり、逃げ恥HPにある公式の掲示板に、毎日感謝の意義を投稿。そして謎の自作逃げ恥カルタ…………………

ヤバい。ガチでヤバい。正直気持ち悪い。というより、当時の自分、そうとう暇だったんだな……とさえ思う。ハマったドラマ、好きなドラマというものは、今までの人生でたくさん出会ってきたのだが、たぶん私が1番お金をかけたドラマがこの逃げ恥だ。今思えば、私の貯めてた所持金がなくなっていったのは逃げ恥の時期だったし、妙に"顔が良い"と騒ぎだしたのもこのころだったように思う。そう、私がオタク化したのは逃げ恥のせいだったのだ!(責任転換)

 

さて、前置きはこのくらいにして、なぜ私がここまで逃げ恥に、ドハマりしたのだろうか。長々と自分語りをしながら、溢れ出す思いを書き出していこうと思う。(最初に言っておきます。マジで長い)

 

 

 

「森山みくり」という存在

2016年放送当時の私は、とてもみくりに似ていた。もちろん、容姿がガッキーに似ているというわけではない。新垣結衣大先生の可愛さは偉大だ。ガッキー好きです。結婚しよう。(はい早速、話が脱線)(もとに戻そう)

初回放送当時、初めて森山みくりを見たはずなのに、ひとつも「はじめまして〜」といった感覚がなかった。大袈裟に聞こえるだろうが、あれ?私ってみくりなのでは?と思ったほどだ。そのきっかけは何だったのだろうか。まず最初に、私がみくりに嫉妬したところから話は始まる。

 

初回出だし。情熱大陸のパロディでとてもコミカルに始まったと思いきや束の間、みくりは予期せぬ派遣切りにあい、そこから晴れて無職となる。みくりは冒頭、自身の妄想情熱大陸内でこんなことを語っていた。

「どんなに小さな仕事でも、真剣に取り組めば、やりがいって見出せると思うんです。」

「でもそういう不満も含めてのお給料だと思えば、頑張れるし、こう、会社に、社会に?必要とされてるんだっていう感覚が、日々の励みになります。」

 

さらに、プロフェッショナル仕事の流儀の妄想でみくりはこんなことを語る。

「誰にも見られていなくても、気づかれない努力だとしても、それでも頑張ることって、大切だと思うんです。それが、プロフェッショナル。私の仕事の流儀です。」

私だ。私なのだが、この言葉を聞いたとき、なんでここまでこの人は、こんなにも笑顔で話すんだろうと思った。

 

私はまだ、仕事というものをしたことがない、しがない学生だ。逃げ恥放送当時は、まだランドセルを背負っていた。

当時の担任は「誰か気づいた人がやる」「思いやり」の言葉をよく言っていた。みんなの助け合いで、クラスの雰囲気がどうとかこうとか。まあ、そりゃそうだ。思いやりの心を持つことは大事だ。だがしかし、「誰か気づいた人がやる」の"誰か気づいた人"とは、"誰"のことなんだろうか。正直、自分の仕事(委員会とか)以外をやるのは面倒くさい。それはみんなが思っていることだろう。そうなってくると、仕事のない作業を誰もしなくなる(めちゃくちゃ大袈裟に書いてますが、学校でいう仕事のない作業とは、黒板消すだとか、配り物配布だとか、掲示板貼るだとか、窓開けて換気するとか、そんなことかよレベルです。でも面倒くさい)。そして、誰もしなくなったら、先生に「なんで誰もしてないんだ」と、あれこれ指摘される。

当時の私は、それが面倒だった。そんなことで怒られるくらいなら、面倒な作業を自分がやる方がましだ。そう思った自分は、何かに気づいたら、いち早く行動をして、授業の準備等をしていた。もちろん「誰かがやって当然」なものなので、別に褒められるわけでもない。誰かに気づかれるわけでもない。そんなことを続けていたら、だんだんと周りに腹が立つようになっていった。なんで、誰も手伝ってくれないんだ。なんで、何もしていないのにヘラヘラしているんだ。なんで、なんで、なんで……………!そんなことを、わざわざ思ってしまう自分も嫌だった。別に大したことないのに。小さいことなのに。

 

そんなどーでもないことでイライラしてた頃(ちょうど反抗期でもありました)に、出会ったのが、森山みくりだ。上にも書いたようにみくりは、「小さな努力が何かに繋がる(要約)」と笑顔で話している。そのとき、私はどうもイライラしたのだ。なんでこの人は、キラキラな笑顔で話しているのだろうか。どうして面倒くさい、やめたいと、言わないのだろうか。理不尽な思いをしているのに、なんで"良い子"でいるのだろう。今思えば、情熱大陸などは、つらい現実を耐えるための妄想であり、誰からも褒めてもらえないなら、自分で自分を労るしかない、といったみくりの心境を察することができるものだが、当時の私は、まだそこまでの思考回路がなく、とにかくイライラしていた。本当に、とてつもなく面倒でウザい人間だ。すぐ誰かのことを妬み嫉み。4年前の私は、私が嫌いだった。

 

そんなふうに、みくりに変な嫉妬を抱きながら見ていた1話。後半、みくりが平匡にこんなことを口にする。

「誰にも認めてもらえなくても、自分は自分として頑張ればいいって、わかっちゃいるんですけど。」

ッッッッッッッッッッ…!!!!!ごめんみくり!マジでごめん!

そう、当時の私はここでやっと気づいた(遅い)。あの妄想のみくりは、無理やり、"良い子"な自分を作っているのだと。無理やり、自分の存在を、社会に必要とされたい自分を、そこに作っているのだと。(その前の百合ちゃんとの会話や、家事代行をしている様子から、みくりの気持ちを読み取ることはできると思いますが、当時の私はガチで気づかなかった。的なことを、自作逃げ恥ノートに書いてました)

 

その直後、みくりのモノローグはこう語る。

「誰かに、選んでほしい。ここにいていいんだって、認めてほしい。それは贅沢なんだろうか。」

「みんな、誰かに必要とされたくて。でも、うまくいかなくて。いろんな気持ちをちょっとずつ諦めて。泣きたい気持ちを笑い飛ばして。そうやって、生きているのかもしれない。」

泣いた。気づいたら涙が溢れていた。周りに必要とされたいと思っていた自分と重ねて。さっきまで、みくりに対して嫉妬を抱いていた自分の不甲斐なさと重ねて。このモノローグ中、みくりだけでなく、百合ちゃん、沼田さん、沼田さん、平匡さん、それぞれの人物が交互に描かれる。そうか、自分だけではないのだ。みんなそう。思ってること、侵されている立場は違えど、認めてほしいと思っているのだ。

上に書いた、当時のイライラエピソードから察せられるように、私はとても自己中心的な人間だった。なんでこうしないの!なんでしてくれないの!といったように。でも、私はその言葉を声に出したことはない。出せなかった。誰かに嫌われるのが嫌だったから。「こうしてほしい」と思っているくせに、声には出さず、頭の中で文句だけ言う。なんて自己中な人間なのだろう。なんて愚かなのだろう。なんて馬鹿なのだろう。そんな思いがふと溢れだし、涙が止まらなかった。

当時私は、逃げ恥1話を見たとき、なんて自分は馬鹿なのだろう、と思うと同時に、そうか、みんな何かしらの思いをもって生きているんだ。私だけじゃないんだ。と、何か自分にまとわりついたものが、軽くなった気がしたのだ。

 

 

 

「小賢しい」

みくりは、大学時代の彼氏(シンジくん)に言われた「お前、小賢しいんだよ」という言葉が、呪いようにみくり自身を苦しめていた。

さっきあれだけ自分語りをしたのだが、ここでまた自分語りをさせてもらおう。私もみくりと同じで、よく詮索や分析をしてしまう癖がある。それは幼少期のころからそうだった。この人は、今どんなことを考えているのだろう。どんな接し方をすれば、この人の機嫌が保てるのだろう、と。(Aというドラマが世間で注目されているのは、こういった理由があるからだろう、みたいなことを勝手に分析するのが好きなのも、そういった癖が影響しているのだと思う)。また私は、せっかちである。自分のことには極端にマイペースとなるのだが、普段の生活は、とにかく無駄をなくしたい、合理的に物事を進ませたいと思っている(=面倒なことを終わらせて、その分を自分の時間に使いたい)。だから、ちょっと上から意見や反論をしてしまうこともある。なんでこうしないの!と言ったことは声に出さず、自分の中で勝手にイライラしてしまうのに、それは違うのでは?別のやり方の方がいいのでは?みたいなことは、すぐ声に出してしまう。自己中心的で、せっかち。まぁ面倒な人間がここに生まれてきたことだ。

そう、これらをまとめて言い方を変えれば、『小賢しい』ということになるのだろう。実際、「こざちゃん、そうやっていろいろ上から言ってくるとこ、ちょっとウザい」などと言われたことがある(そりゃ、あれこれ詮索されたらイライラするよね。シンジくんや、これを言ってきた友人の気持ち分かる)(そして、ここでお気づきになった方がいるかもしれないが、私の名前「こざ」……………そうです、もう気づきましたね。3年前の自分、雑すぎないか。なんかもっと、趣のある名前にしとけばよかった)。

だからこそ、『小賢しい』と言われるみくり、自分のことを『小賢しい』と思っているみくりを見て、あ、自分のことだ…………となったのだ。自分のことを言われているようで、自分のことを痛めつけられてるようで。まるでそこにいるのは、ガッキーの顔面をもった自分。むしろ私がガッキー(怒られる前にやめとけ)。

 

最終回。そんな「小賢しい」という呪いが、ずっと自分の首を絞めていたみくりに、平匡がとある言葉を口にする。

「小賢しいってなんですか?」

「小賢しいって、相手を下に見ていう言葉でしょう。僕はみくりさんを下に見たことはないし、小賢しいなんて思ったこと、1度もありません」

ハグしたかった。私は、この言葉を聞いた瞬間、平匡さんを抱きしめたかった。代わりに、みくりが力強く抱きしめていたから満足はしているのだが(誰目線だ)。

 

また、最終回。百合ちゃんが、自分の若さに価値を見出している五十嵐杏奈に向かって、こういう言葉をかけている。

「自分に呪いをかけないで。そんな恐ろしい呪いからは、さっさと逃げてしまいなさい」

「呪い」という言葉は非常に恐ろしいものだ。自分で無意識のうちにかけることもできるし、相手によってかけられることもある。自ら逃げることができたらいいのだろうが、そう簡単に上手くはいかない。そう「呪い」を解いてくれる存在が何かしら必要だ。そんなとき、みくりには平匡が、平匡にはみくりという存在がいた。平匡はみくりの『小賢しい』という呪いを、みくりは平匡の『自尊感情が低い』という呪いを、心の壁を、解く存在へとなっていたのだ。

私は、全11話を通して、完全に2人の虜となり、みくりに対して自分と近いものを勝手に感じていた。なので、みくりの『小賢しい』という呪いに、光を差した平匡に救われたのだ。もう一度言わせてくれ。平匡さん、ハグさせてください。

 

 

 

みんなちがってみんないい

逃げ恥は、「世間の"常識"を、勝手に相手に植え付けない」ということを、根源に描いてきた作品のように思う。当時の放送から早4年。2016年の価値観と、2020年の価値観はもちろん違うし、新しく上書き保存されている。でも、この逃げ恥が描いてきた『多様性』というテーマは、4年後の今も変わらず、大切にしていくべきなものだと思う。

『多様性』とはなんだろうか。本当に、その『多様性』を受け入れられる社会になっているのだろうか。言葉にするのは簡単だけど、それを実践することはできているだろうか。行動にうつせているだろうか。言っちゃうけど、ぶっちゃけこの日本社会ってそれがものすごく、苦手なように思う。苦手というか、「固定概念」という呪いがウイルスのように萬栄している感じ。正直、100年経っても変わってるかどうか分からないくらいだ(変わっててほしいけど)。

 

ここでまたまた、自分自身の話をするが、私は「固定概念」という呪いが嫌いだ。1人行動や、1人でいる時間が好きな私は、移動教室のときも、休み時間も、1人でいることが多い。別にそのことに関して、寂しいと思ったことはない。むしろラクだと思っている。誰にも干渉せず、1人、好きな時間をのびのびと過ごせる。言い方を変えたら、上で述べたような「自分勝手」ということなのだろうが、そのスタンスは昔も今も変わらない。

でも、そんな私の気持ちも無視して、「友だち100人できるかな?」と学校側は提案してくる。どうして、"1人=寂しい"になるのか。なぜ、国語や道徳の授業でそんな教えをするのだろか。それこそ、大人が決めた勝手な当てつけではないのか。大人が持っている「固定概念」を、子どもに対してぶつけているだけなのではないだろうか。すごい嫌だった。4年前の私は、大人に反抗できる力もなく、ただただ文句を言うしかなかった。というよりも、大人の言うことが正しいんだろうな、と自分を信じ込ませようとしていた。

 

平匡は最終回、心のシャッターをガラガラしてしまったみくりに対して、こんな言葉を投げかける。

「世間の常識から言えば、僕たちは初めから普通じゃなかった。今更ですよ」

『普通』ってなんだろう。この平匡さんの言葉を聞いた当時、私はそんなことを考えていた。恋愛結婚が『普通』の結婚なんだろうか。"世間での普通=幸せ"は誰が決めたことなんだろうか。

4年前、今よりもっと「固定概念」という呪いが街を賑わせていたのだろう。そんな中で、『普通』って何?『当たり前』って誰が決めたの?と、シンプルに、かつ日本社会の確信をつくところを、「みんなちがってみんないい」と突き出すメッセージ。とても気持ちが良いものだった。当時私は、そんな逃げ恥からの、メッセージに救われたのだ。そうだよね!みんなちがってみんないいんだもんね!これまた、肩の荷が降りた気がした。

この逃げ恥という作品が、私だけでなく、日本に広まっている、「固定概念」ウイルスに対して、何かしらのダメージを与えたのは間違いないだろう。今で例えると、固定概念の密がソーシャルディスタンスしたというところだろうか。もっと、みんなが生きやすい社会になるといいな。

 

 

 

さて、ここまで3つの見出しのもと長々と書いてきた。ここまで読んでいるそこのあなた!お疲れ様です。よくこの文章をここまで読みましたね。10万円、心の中で支給しときます。ここまでで、すでに5000字強となっています。もう少し話します。頑張って。

 

上に書いたように、当時の私は、逃げ恥に大きく救われた。この文章は、過去の自分が書いた逃げ恥ノートを振り返りながら書いている。こう振り返ってみると、過去の自分は、自分自身に「呪い」というものを勝手にかけ、どうせ誰も私の味方なんかじゃない、と割り切っていたのだと思う。そんな私に逃げ恥は、手を差し伸べてくれた。光を与えてくれた。逃げ恥に出会っていなかったら、今頃私はどうなっていただろうか。Twitterを始めようと思った(SNSの世界へと手を出した)きっかけが、逃げ恥でもあるので、逃げ恥に出会っていなかったら、私はこんなにもツイ廃になっていないかもしれない。いや、なっているか。

 

正直、私が逃げ恥を好きな理由、ハマった理由はこれだけではない。全てを語ってたら、何文字になるだろうか。語り出したら止まるとこ知らずな人間なので、この勢いで月にまでいけそうである。

 

 

逃げ恥とは、どういったジャンルに当てはめられるのだろう。1話の予告で「社会派ラブコメ」とうたっていた気がする。確かに「社会派」なドラマであり、登場人物に優しく寄り添った「ラブコメ」だ。分かりやすいが、よしこれで、と納得していいものなのだろうか。もっと他に、逃げ恥を表す言い方が……と考えた結果、思いついたのがこれだ。

 

『日常』

 

わーお、そのまんまじゃん、と思われたかもしれないが、だってそうなんだもん。日常なんだもん。日常。逃げ恥が全11話を通して描いてきたものは、普段の何気ない、日常であり、生活だった。

 

平匡役、星野源さんが歌う、「日常」という曲がある。その歌詞の一部がこれだ。

理由などいらない

少しだけ大切なものがあれば それだけで

そして、主題歌「恋」の歌詞。

意味なんか ないさ暮らしがあるだけ

ただ腹を空かせて 君の元へ帰るんだ

 

日常って、生活って、続いていくもの。年月が経つにつれて、自分や周りの環境は大きく変化するだろうが、それでも日常は止まるところ知らず。

結婚の場合、好きな人と結ばれたら、お幸せに!めでたしめでたし!というわけには、いかない。2話で葵さんがみくりに言っていた「結婚は、始まってからが生活だから」という言葉、そのまま。意味などない。理由などない。ただただ『暮らし』というもこがそこにあるだけ。でも、その『暮らし』というものを続けていくには、どうすればいいのか?当たり前が変わっていく世の中、どう再構築していくべきなのか?

そんな、みくりと平匡の2人の間に存在する『日常』を、変に彩ることなく、描いていたのが、この逃げ恥がヒットした最大の要因なのではないかと、改めて。

契約結婚から始まり、恋人、ハグの日、、、、と再構築されてきた2人の関係性。妥協せずに真正面からもがく、みくりと平匡。その様子が、誠実で、いじらしくて、何より愛おしくて。だからこそ、こんなにも愛される作品になったのだろう。

 

 

 

『逃げるのは恥、だけど役に立つ』

 

「後ろ向きな選択でも、恥ずかしい逃げ方でも、生き抜くことの方が、何より大切」が基礎となっている物語。

でも、どうしても、何かしらの「呪い」がかかってきてしまう。誰もが、人には分からない、自分だけが重荷になっている呪いを抱えている。そう、普段の日常が呪いなのだ。

そんな「日常」という生き方から逃げることは、難しいのかもしれない。ときには、自分が不可となって、逃げられないときだってあるだろう。
だからこそ、ささやかな「生活」や、毎日の「暮らし」を、楽しむことはできないだろうか。幸せを見出すことはできないだろうか。

誰に何を言われようが、その幸せのために、逃げたっていいじゃないか。

 

大切なのは、生き抜くことなのだから。


誰かの決めた「自由」ではなく、ただ自分の思う「自由」を羽ばたかせれますように。

その中で、自分の大切な人と、明るくて楽しい「日常」を、できるだけたくさん過ごせますように。

 

 

そう、願いながら、今日の「日常」を生きていくしかないのである。どこまでもやってくる日常を、逃げながら、再構築しながら。

 

 

 

 

 

(以上。私の長ったらしい文章でした。ここまで読んでくださった方、お疲れ様です!そして制作陣の方々、再放送、本当にありがとうございます!)