こざ

ドラマの感想から入ったのにだんだん雑多になった人

半分青い総評

なぜここまで心を揺さぶられたのか。なぜここまで人生観が変わったのか。 

 

 

秋ドラマが始まった。私は今、録画の残量と闘っている。いくらBlu-rayにうつして消してうつして消してもすぐあと30分になってしまう録画の残量。お前は一体なんなのだ。何様のつもりなのだ。まあその話は深刻な悩みなのだが、とりあえずどうでもいい。私は今までたくさんのドラマに出会い、好きなドラマには散々ロスってきた。もちろん今でもはぁーロスだなぁ好きだなぁというドラマはたくさんある。そんな私が初めて、人生観が変わるほど影響を受けたドラマが今年現れたのだ。それが9月まで放送されてた2018年上半期朝ドラ『半分青い』である。

 

半分青いが終わって早3週間。かなりロスっている。というか日に日にロスが酷くなっている。この半青は毎日様々な意見があった。そんな中で「今まで朝ドラを見なかった人達が見ている」「特に若い人が多い」というネットの記事をよく見た。その記事を受けて「周りに若い人がいないからどうなんだろう?」「若い人はどう思ってるのだろうか」という意見を多く見た。よし、この私がお答えしよう。なんて言ったて私は10代真っ只中なのである。クラスという社会で生きている学生なのである。ということで、あくまで何万人といる10代のひとりの意見を聞いて欲しい。私が半分青いに対して感じたことを。(長くなります)

 

 

先程も言ったが私は10代だ。学校に行って勉強をし部活もし、家では宿題に追われている。ついこの間までテスト期間だったとこだ。そんな私に半分青いはとことん刺さったのだ。いや、とことんではないめちゃくちゃ刺さった

 

まず物語の序盤。鈴愛が学生時代のころ。鈴愛は左耳が聴こえないというコンプレックスがあり、授業中はよくつけ耳をつけていた。つけ耳をつけるのは別に他人に危害を加えるわけではないし全然構わないことだ。でもクラスの子の周りの空気が少し困惑していた。その姿がはっきり描かれていた。鈴愛は「普通の女の子」というよりは「ちょっと変わってる女の子」という扱いをクラスの人達には受けていたのだと思う。

まずはそこだ。私の通ってる学校は一学年、1、2クラスの人数が少ない学校だ。だから生徒も先生も名前と顔がほぼ全員一致する。幼稚園保育園小学校からの付き合いがある人も多く、何となくみんなと仲がいい。私の学年はクラス替えがないので、さらに付き合いの多さが増す。だからこそ鈴愛にはリアリティを感じるのだ。もしかしたら私もクラスで浮いてるのかも、ちょっと変わってるって思われているのかも、そう思ってしまうのだ。付き合いが長ければ長いほど本心は言えなくなる。本当に好かれているのかもあやふやになる。鈴愛も自分では何の自覚もないように私も鈍感な方なので自覚がない。ずっと一緒だからこそ逆に不安になる。他人の本心など分かりもしない。だから鈴愛に自分を重ねてはリアルしか感じなかった。

 

それが酷い方向に発展すれば冷ややかな目で見られたりいじめになるのだろう。でも鈴愛はそうはならなかった。なぜなら周りに鈴愛を守ってくれる人がいたからだ。家族だけでなく幼なじみのナオちゃんにブッチャーそして律だ。鈴愛には気軽に何でも話せる友人がいた。守ってくれる人がいた。

そこも私にグサッときたひとつだ。私は自分から人を誘うのが苦手だ。よく今日遊べる?日曜イオ○行こーぜという会話が聴こえる。私は誘ったら迷惑かなという気持ちが先走ってしまい、いつも自分から誘えない。誘われたらもちろん行くのだが、誘われることもほぼない。友達がいないというわけではなく、単に誘われないのだ。学校では和気あいあいと話してるし、1人で行動するのが好きだから別に寂しいわけじゃない。でもやっぱり休日一日中家にいてドラマばかり観てると、友達がLINEで楽しそうに遊んでる写真を見ると悲しくなる。友達と遊んだという話を聞くと虚しくなる。鈴愛のように気軽に誘って集合をかけるということができない。あと私は人見知りで聞き手なので、だいたい友達の方がよく喋ってくる。話を聞いているとそれだけで昼休みが終わってしまう。鈴愛みたいにばぁーっと喋ってその話を聞いてくれる人がいないのだ。いや、いる。いるのはいるのだが、私はうまく舌が回らず、時間が足りなかったり途中で別の話題に変わったりと最後まで聞いてほしい話をしたことがほとんどない。だから鈴愛には単に羨ましいという感想しかない。律は鈴愛の話をちゃんと聞いてくれてそれに受け答えをしてくれた。羨ましい。本当に羨ましい。刺さったというよりは嫉妬したのだろう。

 

鈴愛は抜群に優れた才能はなく、魅力があるというわけではない。でも周りの人たちのおかげで守られ、認められ、受け入れられ、理解してもらいられ、学生ライフを送っていた。自分を必要としてくれている人はいるのだろうか?そんなことを考えてしまう。リアルがとことん突き刺さっていく。でもそこには仲間という存在がいる。小さいながらも確かな救いがあった。リアリティとそこにある救い。そこから私はこのドラマに心を掴まれていたのだろう

 

リアリティと救いは他にも様々ある。そのひとつが、主演の永野芽郁さんも主題歌を担当している星野源さんも好きなシーンとしてあげていたあのシーンだ。

鈴愛は好きだった漫画が描けなくなった。「私はこの夏で28だ。でも結婚もしてない。恋人もいない。漫画もどん詰まり。結婚もして子供もいるユーコに何がわかる。私は...私には何も無い。」

 

うぅ...書き起こしてるだけでも辛い。刺さる。とにかく刺さる。私はまだ働いてるわけではないが、将来何がしたいかは特にない。学校ではよく進路の話が飛び交ってるが、特にはっきりと決まってるわけではない。周りには私と同じような友人がいるのと同時に、将来のことをきちんと考えて進路を決め勉強をしている友人もいる。私は前者なので、もしかしたら私もこの鈴愛と同じようなことになるんじゃないだろうか、何もないという状況になるじゃないだろうか、「将来の夢」が特にないためより強く感じてしまう。まだ何も分からない自分の未来が、今その進路を決めなければならない自分に、かなりズタズタ刺さるのだ。

 

思えば鈴愛はいわゆる朝ドラの王道を全て通らなかった人だ。夢を追う夫を支えることはなく、自ら企業を大成功させるわけでもない。朝ドラのヒロインたちはいろいろ挫折もありながらもなんだかんだで大成功!というのが大半だ。確かにそのヒロインたちを見てると元気と勇気をもらえる。だが逆に「努力は報われる」というリアルみのなさを感じてしまう。現実を生きていると努力は簡単には報われない。もちろん報われる人もいる。凄いくらいの努力をしている人もいる。元々才能がありそれにのめり込めるほど好きなのなら報われるのかもしれない。でもそう簡単じゃない。才能が開花するのもほんのひと握りだ。そう、報われなかったのが鈴愛だ。絵を描くのが好きで、漫画が好きで、秋風先生のところに弟子入りしデビューをした。だけれどもあんなに好きだった漫画が嫌いになった。その姿がとてもリアリティがあったのだ。「努力は報われる」「努力は裏切らない」「信じればきっといい結果が出る」「夢は叶う」そんな美しい言葉で決して飾らない。そこには現実という名の大きな壁がある。そこを甘くするのではなく徹底して描いてるのはよくやってくれたと思う。今作には漫画家の時以外にもありにある。律の結婚ハガキ、涼ちゃんとの離婚、企業の倒産。そんな現実は甘くねーよというのが鈴愛にどんどん襲いかかる。とてもリアルを感じた。観るのはとても辛かった。辛かったのだが逃げずに描いてくれた制作陣にスタンディングオベーションだ。

 

今作のリアリティに刺さり刺さりまくった。でも私はこのドラマに、刺さりに刺さりつつもとてもとっても救われたのだ

鈴愛は強い人間だ。その鈴愛の強さからくる突飛押しもない行動に腹が立つという人もいたのだと思う。でも私はその鈴愛の強さに心を打たれたのだ。鈴愛は理不尽なことがあるとその場でやり返している。名前をいじられた時にブッチャーにゴミ箱を投げたり、秋風先生に炭水化物要因だと言われたがための原稿人質事件だったり、清さんに律は私のものだと言ったり、めありさんに名前をいじられたときもすぐめありさんに反抗したり、彼氏宅に行ったらその場になぜかいる元住吉監督に反撃したり、娘の5歳の誕生日に夢を諦めきれないから離婚してくれという涼ちゃんに死んでくれと言ったり、逃げ恥津曲さんにはつぅまぁがぁりぃと言ったり、私にはその姿がヒーローに見えたのだ。英雄、ヒーローに。

この世の中は理不尽なことばかりだ。社会に出れば社会の、学校にいれば学校の理不尽がある。私は社会に出てたことがないので社会の理不尽は何も言えないが、学校にもたんまりとある。

だいたい学校というのは「みんなと仲良くしよう」「みんなと協力しよう」という感じだ。だから何かと怒られるときもクラスに向けて連帯責任となることがある。例えば授業に集中できていないという内容だった場合「授業中にダラダラしている本人も悪いが、それを注意しなかった周囲も悪い。だからクラスの空気が乱れてしまう。」とだいたい先生は言う。こんな理不尽なことを何回受けたことやら。自分で言うのもあれなのだが、私は成績がいい方で集中して授業を受けている。同じ班の人がふざけていたら小さく注意もしている。それでも他がダラダラしていると同時に同じ量の叱りをうけるのだ。そしてその後に学級長の2人が呼び出されて「君たちはよくクラスのためにやっているから、どうしたらいいかまた考えてほしい」と言っているところをよく聞く。学級長はクラスのためによくやってくれていると思うのだが、なぜ彼らだけ褒められるのかと思ってしまう。私は何も委員会等には入っていない。理由を言うと面倒だからだ。忙しさは委員会に入っている人よりは少ないものの、でも普段の生活はそれなりに頑張っている。だけども、実際に褒められるのは学級長だ。なぜ?といつも思ってしまう。学級長の女子と私は幼稚園のころからの仲なので、「こんなことを先生から言われたんだけど」という相談をよく受ける。だがなぜ君たちだけ褒められるの?という気持ちが勝ってしまう。彼女は何も悪くないのだから、どうしようもない。そして先生に言いたくても、反撃しようにも、反撃できない。ちょっと愚痴らせてもらうと、我が担任の先生は言うことやることに説得力がない。生徒だけだと偉そうなことを言うのに、大先輩の先生がいるとニコニコして褒めることしか言わない。だから怒られようが、何かとさっきと言ってること違うじゃん、で説得力がない。また、えこひいきもある。クラスに分かりやすく”可愛い”という子がいるのだが、その子にはめっぽう優しい。「みんな平等に。優しく」という先生の言葉にはやはり説得力がない。怒られながら、いやいや先生は教育者として言ってるのは分かるんですけど、私たちに言える立場じゃないですよね?と思ってしまう。私たちをそんな理不尽な先生に反撃しても、無意味なことはある程度分かっているので言えない。鈴愛のように反撃ができない。それと同じようには何回注意しても全く反省しないという、いかにもよくドラマで見る反抗期思春期真っ最中の中学生がクラスにいる。その人はいわゆるスクールカーストの上の人間で、なかなか理不尽な経験をさせられてるのだが言い出せない。というか注意しても、はーいで受け流して聞く耳を持たない。注意したことを秒で忘れてくれる。だから鈴愛が理不尽なことに強く言ってる姿はヒーロー中のヒーローなのだ。また鈴愛はあまり根に持たず次に進んで行く。私はまあまあ根に持つタイプなので、次へ次へと物事を行動力にうつす鈴愛はこれまたヒーローなのだ。鈴愛はどんな理不尽なことに言い返し、そこまで根に持たず立ち向かい次へと進んでいく。その姿にどれだけ救われたことか。とりあえず言う、ありがとう鈴愛!ほんとにありがとう!

 

私が救われた理由は鈴愛だけではない。仲間の存在だ。上にも書いたが、鈴愛には仲間がいた。家族に、幼なじみに、オフィスティンカーベルメンバーに、三おばに、おひとりさまメーカーの人達。たくさんの仲間がいて、どんなに鈴愛が落ち込んだときでも隣にいてくれた。仲間によって鈴愛の人生は支えられていた。世間的に大きく認められなくても、周りが認めてくれて応援してくれた。東京に行くと言ったときも、漫画家を挫折したときも、そよ風の扇風機を作ってるときも。実際に涼ちゃんという鈴愛の漫画のファンに出会うこともできた。最終的には離婚ということになったのだが、結婚をし可愛い娘も産まれた。また、いじめの件もそうだ。鈴愛がカンちゃんに対し「逃げるのではない。正しい場所に行くんです。する必要のない戦いだ。だから場所を変える。」と言った言葉。津曲が修二郎に対して「もういい。家に帰れ。先生には、明日学校に行ってお父さんが話をする。相手は頭でっかちな大人だ。子どものお前には太刀打ちできないし、太刀打ちする必要もない。」「友達なんか作らなくていい。媚びるな自分でいろ。無理してみんなに合わせるな」と言った言葉。学校に行くのが正解。友達とみんな仲良くするのが正解。そんな考えがまだある世の中だ。ではなく、辛いときは無理しなくていい。選択は幾らでもあるんだよ。と投げかけられた。ドラマでこうして描いてくれることは、少しでも見ている人の力になったのではないだろうか。カンちゃんも修二郎も周りの仲間によって救われた。「努力は報われる」大きくはなかったのかもしれないけど、身の回りの仲間が小さな報いへと救いへとなっていったのだ

 

半分青いに救われたことは数えきれないほどある。半青のリアリティと救いが私をこんなにも心を掴み、そして希望へとなったのである。

 

また半分青いは私の好きなジャンルの詰め込みだったと思う。私は平坦で誰もが見やすい作品よりは、少しクセのある、人を選ぶ作品が好きだ。そして友人以上恋人未満という一言では表せない男女の関係が大好きだ。今作で言うと律鈴のことだ。鈴愛と律の関係は本当にエモい。今までエモいの意味がよく分かってなかったのだが、この半年でエモいの意味を学んだ気がする。エモい。ひたすらにエモい。エモエモのエモ。このエモさがもうたまらないのだ。語れと言われたらいくらでも語れる。律のどうしようもないとこも律そういうとこだぞ!この秒速五センチメートル男が!ですっごい楽しめた。2人のキス回は華丸さん状態で照れと涙が止まらなかった。もう2人は最高だ。大好きだ。

 

そして賛否を起こした東日本大震災の描写。私的にはとても必要で有難いものだった。なぜなら、私は震災が起こった当時はまだ幼稚園児だった。当時の記憶はほとんどなく覚えているのは「何で今日プリキュアしないんだろう?」と思ったことくらいだ(実際ニュースがしてました)。私と同じくこのドラマを観ている10代の人はまだ小学生や幼児だった人が多いはずだ。大きくなってから授業やテレビなどできちんと震災の映像を見ているのだが、ドラマとしてこの出来事をきちんとなかったことにせず描いてくれたことは本当に有難かった。月日が経った今だからこそ必要なことだったのではないだろうか。ドラマでは鈴愛の親友のユーコが震災により亡くなる。ユーコは生前、家族と友人に向けてメッセージ、つまり遺書となるものを録音として戻している。このメッセージが鈴愛や家族の元に届いたのもこのドラマにおける救いのひとつになっている。大切な人が亡くなり絶望の定かにその人からのメッセージが届くという救い。いろいろ意見はあったが、私もずっとユーコを見てきた立場なので、鈴愛と同じように救われた。これからの生きる道をユーコが作ってくれたのだと思えた。

 

長々と書いたが、あくまで私の、現在10代の私の、個人の意見だ。私のクラスにも観ている人が何人かいて感想を聞いたことがあるのだが、共感した人、普通に面白かったという人、まんぷくの方が好きだなという人、キスにあぁーってなった人、様々だった。ドラマの感じ方は人それぞれだ。それを押し付ける必要はどこにもない。

私は半分青いを観る前と後でかなりドラマを観る基準が変わった。また価値観も変わった。心の中に鈴愛を暮らしておくと強くなった気がする。最近理不尽なことがあると脳内の鈴愛がビールをかけてくれるようになった。鈴愛ならきっとこうしてると思えば切り抜けられるようになった。やっぱり鈴愛は私のヒーローだ。

 

『半分青い』面白かった人、面白くなかった人、大切な作品になった人、嫌な思いしかしなかった人、何となく最後まで見てしまった人、いろんな感じ方があると思う。

 

少なくとも私にとっては、とても救われ、人生の分岐点の作品になったことは確かなのだ。

(長くなりましたが、最後まで読んでいただきありがとうございました)